昭和42年12月1日 朝の御理解
昨夜、私のためにも、叔父であり、叔母であります、椛目の田中の、叔父、叔母の式年祭が、ちょうど、一緒に重なっておりましたので、霊祭を奉仕させて貰いました。何にもない中にも、ただ、一生懸命の思いで、奉仕をさせて頂いた訳でございますが、お祭りを仕えて頂きました事でございますけれども、御霊の喜びは、そのまま、神の喜びとこう仰る。御霊の喜びという事は、私共の、この真心を結集して、御霊に喜んでもらおうと、こう、真心を捧げることなんですけれどもね。ですから、それは、そのまま、親が喜べば、そのまま、神が喜ぶという事にもなる訳なんです。なるほど、親孝行すりゃ、おかげ頂けるという事が分かりますよね。親の前に、素直であるという事が、おかげを頂くという事が分かります。御霊が喜べば、神が喜ぶと、神が喜ぶとこういう。
次に、阿呆になればます、馬鹿になれば、ヒロと、こういう事を頂きます。私の、その、叔父、叔母の名前は、叔母は、ヒロと言いよりました。田中ヒロと言いよりました。それから、叔父は、田中増太郎と言いよったんです。これはこの、奉仕をした、元、仕えさせて貰った子供というかね、達に下さった、これは、天地の親神様のお心だと、こう思いました。阿呆になればヒロ、馬鹿になれば増すと。お互いが願っておるのは、そこんところです。いわば、田中という事を、田、田とか畑とかという、それに致しますなら、田が、段々、広うなって行く。段々、田が、増していく。植えておるものが、増していく。増収する。これはまぁ、そのおかげだという事だと、こう思うんです。だから、もちろん、それでは、最後にですね、そういう生き方というかね。または、あの、そういう、それは一つの思い込みを持って、それを行じ抜いて。ただし、それは、信心してという事だね、信心させて頂いて、だから、馬鹿になるという事やら、阿呆になるという事は、どういう事かと言うと。もう、いよいよ、やはり、豊かに、大きくなる事だと、こう思うんです。
ですから、そこには、腹立ちもなからなければ、不足もない、不平もない。いわゆる、私は、これはもう、人間が、おかげを頂いて行く、一つの原則だと思うですね。ですから、もう、どんなに、難しい事言うても、結局は、そこんところを清めて行くためのものです。これは、田中の家の事だけじゃありません。私共も、結局、私共は、そこんところを極めて行かなければならないと思います。どうでも一つ、不平を言わんで済む私。不足を言わんで済む私。豊かに、大きゅうならせて頂かせて貰う稽古を、本気でさせて貰って、せっかく、ここに、増してくる、せっかくこう、広まって行こうとしよるところへですね。例えば、遅くい、腹を立てる。せっかくの、広うなって行きよるものが、狭うなってしまう。せっかく、増して行きよるものが減ってしまう。せっかく、広うなっていきよるものが、狭うなってしまう。私は、そこんところを、繰り返し、繰り返しして、広めたり、狭めたりするようなことはなかろうか。そこんところを一つ、私共が、もう、いよいよ、そうだと思いこませて頂いて。阿呆になり、馬鹿になり、いわゆる、吉木先生が四神様から頂かれたという。馬鹿と阿呆で道を開けというのは、なるほど、馬鹿と阿呆になりゃ、道が開けることが分かります。これはもう、本当な事、いわゆる、大真理なんです。また、そう言われればですよ、おかげが頂けれるという原則なんです。そういう、もうこれは原則なんです。決まりなんです。そうなりゃ、おかげを頂く、おかげを下さらなきゃならないような決まりがあるんです。だから、他に難しいことはない訳なんですね、金光様のご信心というのは。金光様のご信心に限ったことはないでしょうね。これは、何々教だって、何々宗だって、私は、その何宗、何教というものをです、本当に、節度のある、いわゆる、信心して、おかげを頂くのは別と仰るのですから。きちっとした信心が出来て、そして、馬鹿になれば、阿呆になって行けばという事なんですね。
もうこりゃ、どうすれば、腹が立たんごつなるか。どうすれば、不平不足を言わんで済むようになるか。いや、思わんでも済むようになるか、という事だけを、思うておったら良いのです。だから、教祖の神様の教えて下さる、全てが、私は、御教えはですね、その事を教えておられるとね。天地の道理を説いて下さる事も、天地のご恩徳をといて下さる事も、ね。道理が分かったらです、道理が分かったら、腹を立てんで済むのである。道理が分かったら、不足を言わんで済むのである。天地のご恩徳を分からせて頂いたら、有難いのである。勿体ないのである。お徳の中に生かされている事が分かってくると有難い。その、有難いものがです。不平の事が起こっても、不足な事が起こってきてもです。その、有難い方が強い訳なんです。ですから、もう、不足も出なければ、腹立ちもないという事になる。なるほど、天地のご恩徳を分からせて頂くという事。天地の道理を分からせて頂くという事。それだけですけども、天地の道理を説き明かしておられる。天地の道徳を、説き明かしておられる。ですから、そこんところを分からせて頂くという、なるほど、お徳の中に生かされておるんだなぁと。なるほど、道理に合うた生活をしなければいけないんだなぁと。そこんところを、極めてさえ行けばですね。自ずと、腹も立たんようにもなる、不足も言わんでも済むようになる。もう、絶対の、そこに、人間氏子の幸せの道というのは、そこから、付いいてくる訳なんです。それを、極言致しますとです、ね。阿呆になりゃまし、馬鹿になりゃヒロという事になるんですよ。
私の叔父、叔母がです。その、夕べ、奉仕いたしました御霊様の、生前の名前がヒロと言いよりました。生前の名前が、増太郎でございます。だから、それと、これとをもじってくださったと、こう思うです。御理解なんですね、いわゆる。同時に、私はですね、その中から、私共が、本当に、親に喜んで貰う、それが、神の喜びと仰る。神様の喜びは、氏子に反映してこない筈がない。御霊の喜びは、神の喜びと、こう仰る。その、神様の喜びがです。それを、奉仕した、いわゆる、遺族の者。後に残された私共の上に、それが、反映してこない筈がない。神様が喜びなさったけんで、うっ叩きなさった。神様が、喜びなさったから、苦しみなさったちいう事がある筈がないと言う事。そういう様なですね。きちっとした信心。ね。親の年季を忘れておる。今日は、親の誕生日だった事も忘れておる。思いだしたっちゃお茶も沸かさん。これでは、信心が無い事が分かります。だから、そういうところを、きちっとした信心という風に下さったのじゃないかと、私は思うですけど。ね。親が、こうすりゃ、喜ぶことは分かっとるばってん。もう、分かっとるばってん、分かっとることをせん。それを、私は、実意を欠いた者の姿であると、こう思います。実意丁寧にならせて頂いたら、そこに、きちっとした信心が、させて貰わなければおられないのである。親も、大事にしなければおられない。先祖も大事にしなければおられない。そこに、神の喜びがある。神の喜びが反映してくる。これを、きちっとした信心だと、私は、昨日、頂いた。同時に、馬鹿になりゃまし、阿呆になりゃヒロというですね、おかげ。ただ、ここんところを一つ極めて、きちっとした信心と。そうした、いよいよ、腹を立てぬ。不足を言わないという信心を、いよいよ、身につけて行かなければならない。いわば、たったこれだけでしょう。これだけだけど、みんなは、それを、自分の身につけるために、いよいよ、日々、きちっとした信心させて貰うて、御教えを頂いて、天地の道理を、いよいよ、分からせて貰い。天地のご恩徳を、いよいよ、深う、広う分からせて頂くという事によってです。天地の道理が分かりゃ、馬鹿らしゅうして、不足は言われん。天地のご恩徳が、本当にわかりゃ、もう絶対に、有難くならなきゃおられんのである。ね。
いわば、神が有難い、お水が出りゃ有難い。マッチをすりゃ、火が出りゃ有難い。もうしかも、それは、不思議で不思議でたまらん。まぁ、何という天地の素晴らしい、お働きであろうかと。それを、いわば、信心が無いと、日が出ても当たり前。夕日が出ても当たり前。それは、天地のご恩徳が分からんからだ。天地のご恩徳を、いよいよ、分からせて頂いて、私共が、有難いという、日常生活の中に、有難いという生活を営ませて貰う。その、有難いという中には、雨もあれば風もある。腹の立つような事を言われる事もあるけれどもです。それも、一つ消えて行くのである、有難いという心で。ね。
簡単に、腹を立てたら、おかげは頂かれん。不足を言うたら、おかげは頂かれん。だから、もう言うまい、思うまい、腹を立てまい。たった、それだけの事。けども、それだけ、分かっただけでは、なかなか、腹が立てないと思うても、立つから仕方がない。不足が、この中に起きてくるから仕方がない。そこで、信心の稽古が、いかに大事かという事が、皆さん、分かるのですね。そして、また、大変、その事は、難しい事だという事も分かります。
そこで、私共が、思うのです。はぁ、腹が立った。心が乱れた。かっかしてきた、腹が立って。はぁ、こんな事では、おかげは受けられん。こんなことしちゃ、おかげは受けられんと。ほんなら、頭、うち振ってみても、なかなか、いっぺんに、腹立ちが消える訳じゃないけれども。そこに、信心させて頂く者は有難いのですよ。いわゆる、詫びるという手があるのです。神様、すみませんと。心から詫びるのです。また、願う天地があるのです。どうぞ、この私の心の中に、いわば、腹立ちが、渦巻いております。どうぞ、納めさせてください、納めさせてください。いわゆる、金光様、金光様、金光様というて、胸を撫でさすりしよると、腹立ちが治ると言うのは、それなんです。信心させて頂くと、そこに、そういう、いわば、おかげの頂いていけれる道に近づいていけれる道を、教えて下さる。神様に、私の心の中に、このような事が、たった、このくらいな事が、不足に、ここに感じております。どうにも、しようがないのである。それを、心の中に、一生懸命、あれを思い、これを思いして、お礼を申させて頂きよると、その不足が、はぁほんに、不足どん、言う段じゃなかったという事になる。
北野の中村さんが、ある時、神様に、あるお願を、一生懸命になさておった。そしたら、突然、中村さんの信心、心の耳に響いて来たものがある。これでは、おかげが頂き足らんごと思うたという声じゃった。おかげば、頂き足らんごと思うとった。まぁだ、おかげば、頂き足らんごと思うとるという事であった。もう、それを、頂いた途端に、神様、只今、私が、お願いたしておりました事。本当に、あれを思い、これを思いすりゃ、本当に、あれも、こげな広大なおかげを頂いておる、私である事を気が付いたら。いわば、願う事すらが無くなったと言う。私どもが、何時も、頂き足らんごと思うところにですね。不足があるのですよ。もう、不足だって言わない。もう、これで結構なのである。もう本当に、結構も結構も、もう本当に、信心も出来んのに、このようなおかげを頂いてという事になるのである。
馬鹿になりゃ、馬鹿になればまし、阿呆になればヒロと。たった、一言の、その神様のお心をです。そういう、いわば、自分の心が、広うなり、増してくるおかげを頂き、自分の心が、馬鹿になり、阿呆にならせて頂くために、今日、私が、申しましたようなですね。信心に、いよいよ、焦点をおかなければ、なかなか、馬鹿にも、阿呆にもなれないという事。また、きちっとした信心も出来ないという事。いわゆる、実意丁寧神信心と仰る、実意丁寧神信心も出来ないという事。いよいよ、私共は、おかげを頂かせて貰うて。もうこれは、宇宙の大原則である。そういう心の状態をもったらですね。もう天地が、その氏子に、恵まなければならないという決まりがある。そういう決まりを、私共が、無視してです。原則を無視してです。真理を私共が、分かろうと、努めずしてですたい。おかげ下さい、おかげ下さいでは、だから、なるほど、おかげが受けられんという事が分かりますですね。天地のご恩徳を、いよいよ、悟らせて貰い。天地の道理を、いよいよ、分からせて貰う信心に努めなければならん事が分かります。どうぞ。